健康 ~偉業達成の源~
健康長寿へのこだわり
庶民の平均寿命が40歳に満たなかった当時、家康公は75歳とたいへんな健康長寿でした。 家康公にとって健康とは、偉業を達成するための必須条件だったのです。
幼少期から抱いていた平和な時代に向けての壮大な夢を実現し、晩年まで数々の政策や戦略を生み出す源となったのは、日頃から大切にしてきた「知」・「食」・「体」だったのではないでしょうか。
家康公の薬園
家康公は、薬学にも大変精通していました。薬草の知識は専門家も驚くほどで、自ら調合した薬を自分で飲むだけでなく、家臣達にも処方していました。4600坪以上あった”家康公の薬園”の跡として現在の葵区安東に「駿府御薬園」と書かれた石碑が建っています。
処方集『和剤局方』
家康公は、医薬品の処方をまとめた中国の書『和剤局方』を愛読していました。
『朝鮮版 和剤局方』 久能山東照宮博物館所蔵
乳鉢・乳棒
家康公は、この乳鉢と乳棒で薬草をすりつぶして薬を調合していました。
『青磁鉢 乳 二本』久能山東照宮博物館所蔵
若さの秘訣・知への好奇心
今川氏の人質として駿府で暮らしている間、臨済寺の「竹千代手習いの間」で今川氏の軍師として知られた雪斎からさまざまな教えを受けたことが、のちの家康公の知的好奇心のもとになったといわれています。
大御所時代には、高僧を集めて家康公が出したお題について論じ合わせる「宗論」と呼ぶディベート大会を頻繁に開いていました。特に優れた弁論をした僧侶を家臣として取り立てたり、特別に寺を与えることもありました。また、囲碁・将棋をこよなく愛好し、本因坊算砂や大橋宗桂といった当代の名手たちを駿府城に呼び、御前対局を楽しみました。
このような途切れる事のない知への好奇心が、家康公の若さを保つ秘訣の一つだったといえます。
『竹千代手習いの間』臨済寺の部屋を駿府城公園・巽櫓内に復元展示
臨済寺
葵区大岩町にある今川氏菩提寺。家康公が雪斎から教育を受けたゆかりの地でもあり、徳川幕府に手厚く庇護されました。
家康公愛用の眼鏡と鉛筆
左:『目器』 右:『鉛筆』 久能山東照宮博物館所蔵
「長命こそ勝ち残りの源である」
「長命こそ勝ち残りの源である」と、健康の源である食にはたいへん気を使っていた家康公。
麦飯を主食にするなど普段から粗食に徹し、旬の食材や駿河湾の新鮮な魚など、その土地の食材を好んで食していたといわれています。
現在でも家康公にまつわる食が数多く伝えられる静岡の地で、健康長寿にあやかる滋養食を楽しんでみてはいかがでしょうか。
生涯に渡る趣味、鷹狩り
家康公は、幼少期から晩年まで生涯を通じて鷹狩りを楽しみ、日常的に野山を駆け巡り足腰を鍛えていました。
大御所時代には、多くの鷹匠が召し抱えられていました。また井川や梅ヶ島(葵区)には「御巣鷹」と呼ばれる、家康公が鷹狩りで使うための“優れた鷹のヒナ”を見つけるための山がありました。
家康公は、鷹狩りを通して地形の確認をするとともに、そこに住む人々の様子を調べ、政治やまちづくりの参考にしたといわれています。
家康公にとって鷹狩りは、趣味と実益を兼ねた、生涯に渡る楽しみだったのです。
『猛禽玄猿図』部分・久能山東照宮博物館所蔵
鷹匠町(葵区)
家康公の鷹を英才教育する鷹匠集団のいた町
瀬名「幕ヶ谷」地区(葵区)
家康公がこの地のヤマモモの樹の下に鷹狩りの陣幕を張ったことに由来。このヤマモモの巨木は、現在も同じ場所に残っています 。
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