暮らし ~家康公設計の機能都市~ 印刷用ページ

最終更新日:
2016年4月1日

駿府のまちづくり

 豊富な知識と経験を持つ大御所時代の家康公は、海や川といった地形を利用した水運と、東海道をはじめとした陸路の両面から、人と物の流れを最大限に活かす壮大な駿府の「まちづくり」を行いました。
イラスト/寿 道
駿府のまちづくり

先見性に富んだ町割り“駿府九十六ヶ町”

駿府九十六ヶ町

 家康公によって整備され、のちに“駿府九十六ヶ町”といわれるようになった駿府城下町は、江戸時代を通じて東海道の宿場町として栄え、現在の静岡市街地の原型ともいえます。
 駿府城周辺や城の北西に武士の居住地が、南西に商人・職人の居住地が設けられていました。
 また、町場の西端(現在の常盤公園周辺)には寺院が密集しており、城下町を防衛する役割を担っていました。今でも当時と同じ町名が残っている所も多く、町の随所に当時の城下町の跡がみられます。

『東海道図屏風 府中』静岡市所蔵

札の辻

札の辻

 江戸時代、人々の往来の多い場所に高札を立て、新しい法令を発表していました。駿府の札之辻町は、幕府の法令が伝えられる場であるとともに、東海道から駿府城下町へ入る「にぎわいへの入口」でした。
 静岡市街地では現在“九十六ヶ町”の町名碑の設置が進められています。

駿府九十六ヶ町 町名と職業の関係

 家康公は、「まちづくり」を進めるなかで、職人や商人たちを職業ごとに分けた町に住まわせました。現在もその名残がうかがえる地名が多く残されています。
駿府九十六ヶ町 町名と職業の関係

あこがれの大都市、駿府

あこがれの大都市、駿府

 大御所時代の駿府は、約10万人以上が暮らす世界屈指の大都市でした。東海道を行き交う大名や公家、外国の使節たちは、家康公に謁見するため駿府を訪れていました。今に残されている駿府を訪れた諸外国の人々の感想などからも、当時の駿府は世界から注目されていたことがうかがえます。
 家康公没後の駿府は、人口が1万数千人となりましたが、江戸時代を通して全国の大名や旗本が勤務する江戸幕府直轄の地であり、日本全国から人々が訪れていたまちでした。そのため、全国各地に駿府に関する記録が残されています。

歌川広重『東海道五十三次 府中 ニ丁町廓之圖』静岡市東海道広重美術館所蔵

駿府を訪れた人々の言葉

「駿府城はインドや中国からでも見られるほど豪華なものだ」 間宮喜平次の覚書「駿河状」
「たいへん清潔な町で、寺の姿も美しく人口は12万ほどある」 ドン・ロドリゴ(スペイン領フィリピンの臨時総督)
「この駿府の都市は、郊外いっさいを含んだロンドンの大きさほど十分ある」 ジョン・セーリス(イギリス国王使節)

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