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更新日:2025年6月20日
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国指定史跡片山廃寺跡は駿河国分寺跡に名称が変わります
「国指定史跡片山廃寺跡」は、長年にわたる発掘調査と分析結果から、文化庁における審議を経て「駿河国分寺跡」に名前を変更することが令和7(2025)年6月20日に決定しました。
注記)令和7(2025)年秋予定の官報告示により正式に名称が変わります。
寺院跡の発見
片山廃寺跡は、東名高速道路日本平久能山スマートICのすぐ東、有度山西麓に造られた奈良時代の寺院跡です。昭和5(1925)年に道路の付け替えに伴って礎石や瓦が発見され、古代寺院があることがわかりました。その後、昭和23(1948)年には登呂遺跡周辺調査の一環として日本考古学協会による本格的な発掘調査が行なわれました。それ以来、現在まで小規模なものも含めて60回以上の発掘調査が行われてきました。
伽藍地(がらんち。寺院の土地)内のほぼ中央に、南から金堂(こんどう。本尊を安置する中心的建物)・講堂(こうどう。法要や教典の講義を行なう建物)・僧房(そうぼう。僧侶が居住する建物)が中軸を揃えて一列に配置されていたこと、伽藍地のまわりは木の柱を支柱にした板塀や溝がめぐっていたこと、火災によって建物が焼失しその後再建されなかったことなどが分かってきました。
発掘調査で見つかった講堂の礎石と瓦
出土した塼(せん)。基壇(建物の土台となる壇)
の上に並べるレンガのようなもので手前が大理石製、
奥が瓦と同じ焼き物
出土した鬼瓦(高さ約45cm)
地名から付けられた史跡の名前
昭和40(1965)年の史跡指定当時、片山廃寺の性格をめぐって2つの説がありました。1つは氏寺(うじでら)説で、中世以降「国分寺」が今の駿府城北にあったことが文献資料に見えること、国府推定地の安倍郡(あべぐん。JR東海道線の北側、現在の葵区にほぼ相当)や東海道から離れていること、塔が見つかっていないことから、有度郡(うどぐん。現在の駿河区にほぼ相当)の有力豪族の氏寺とする説です。
もう1つは駿河国分寺(するがこくぶんじ)説で、発掘された各伽藍建物の規模が大きいこと、瓦の特徴や出土した土器から創建が奈良時代であること、中世以降の国分寺が存在していた駿府城周辺から古代の瓦は見つかっていないことから、駿河国分寺とする説です。この決着がつかないことから、大谷字片山(おおやあざかたやま)の地名を採って片山廃寺跡として史跡指定されました。また、伽藍地の南方約500mの山裾には、片山廃寺で使用する屋根瓦を焼いた「宮川瓦窯跡群」も見つかり、昭和49(1974)年に史跡に追加されました。
国分寺とは
奈良時代の天平13年(741)に、聖武天皇が全国に広まっていた飢饉や干ばつ、疫病などがしずまることを願い、全国に命じて造らせた寺。国分僧寺(こくぶんぞうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)があります。なお、奈良にある東大寺は、全国の国分寺を総括する総国分寺です。
塔跡の発見、駿河国分寺の証拠の数々
平成20(2008)年の発掘調査で、塔跡が発見されました。国分寺を特徴づける建物である塔の発見は、片山廃寺跡が駿河国分寺である大きな証拠となりました。そして、これまでの発掘調査成果を基に分析を進めることで、国分寺跡である数々の証拠が浮かび上がってきました。
1.大きな塔
平成20(2008)に金堂の南東部で行われた発掘調査で、掘込み地業(ほりこみじぎょう)が発見されました。掘込み地業とは地盤改良のことで、建物を建てる下の地盤を掘り込んで、固く締め固めた土の層を何層にも重ねたものです。これは、上に高い建物が建っていたことを示しています。これにより、塔があったことがわかり、片山廃寺が国分寺であったことの決定的な証拠になりました。1辺16.5m四方の基壇の大きさは、他の国分寺よりも大きく、七重塔だった可能性が高いです。また、塔を金堂の前の東か西に置く配置は、国分寺に多い特徴です。
発掘調査で見つかった塔の掘込み地業の跡
2.寺院の大きさ
南北192m、東西148mの伽藍の範囲は、近隣の遠江国分寺(磐田市)(南北253m、東西180m)、三河国分寺(愛知県豊川市)(約180m四方)よりやや小さいですが、国分寺として標準的な大きさです。
3.建物の並び(伽藍配置)
金堂、講堂、僧房が揃って南北に並ぶ配置は、多くの国分寺に共通します。
4.大きな僧房
聖武天皇は国分寺に20人の僧を置くよう命じました。片山廃寺跡に僧が住む大きな僧房があることはこのことをよく示していて、他の国分寺と共通します。地方の氏寺に大きな僧房はありません。
5.平城宮と似た瓦の模様
何種類かある片山廃寺跡の軒平瓦のうち1種は模様が平城宮とよく似ていることから、官営の寺、つまり国分寺であった特徴を示しています。
6.創建時期が奈良時代
出土した土器から、創建時期は奈良時代の8世紀中頃であることがわかりました。
史跡の暫定整備と公開
平成8(1996)、9(1997)、14(2002)年度に、主要な建物付近を中心に暫定的な整備工事を行い、金堂、講堂、僧房の基壇と礎石を復元し、史跡公園として公開しています。
史跡公園の様子
これからの片山廃寺跡=駿河国分寺跡
現在は、主要な建物付近のみを整備した暫定的な史跡公園となっていますが、駿河国分寺跡全体を、静岡市の郷土の大切な財産として守り伝えていけるよう、本整備を目指していきます。
アクセス方法
- バス
バスJR静岡駅北口「美和大谷」線「静大前」下車徒歩約10分または「片山南」下車すぐ※「片山南」を通る路線は時間が限られています - 車
専用駐車場はありません - 公開時間
自由 - 見学料
無料