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更新日:2024年2月15日
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駿府城~大御所家康終焉の城~
江戸時代はじめの城普請(工事)のようす(「築城図屏風」名古屋市博物館蔵)
今川の「館」から大御所の「城」へ
静岡市の中心地にある駿府城は、大御所家康の拠点として知られています。東海道に隣接し、東国を守る要の地としても重視され、中世には今川氏の館が建てられていたといわれています。家康も、駿府城を天正期の「五ヵ国領国時代」と慶長期の「大御所時代」に拠点としており、最後は駿府城の二ノ丸で息を引き取りました。
駿府城が現在の規模に作り替えられたのは、慶長期の「大御所時代」で、慶長12年から慶長13年までの普請の間に、のべ60家以上の諸国の大名が普請に参加しました。当時はまだ豊臣家の勢力が残っていた時代ですが、家康は多くの大名家を工事に動員しており、難しい政治状況の中でも、家康が大きな権力をもった存在であったことが窺えます。駿府城の石垣には、現在でも当時の工事を担当した大名のものと思われる刻印がいくつか残されています。
駿府城東御門・巽櫓
駿府城の構造
慶長期に修築された駿府城は、輪郭式の平城で三重の堀に囲まれた構造をしています。天正期はほぼ二ノ丸(現在の駿府城公園内)までの大きさで、慶長期の工事ではこれを拡大したと考えられています。慶長期の家康在城当時は、本丸内に家康が居住した御殿や天守が設けられ、二ノ丸や三ノ丸(県庁や静岡市市民文化会館がある辺り)には後の徳川御三家の始祖となる家康の三人の末子たち(義直・頼宣・頼房)や、家康の重臣の屋敷が構えられていました。
明治29年(1896)陸軍歩兵34連隊の兵営が駿府城内に設置されることになり、本丸堀は埋め立てられてしまいますが、発掘作業によって現在でもその一部を見ることができます。
江戸時代の駿府城のようす
(「駿府城図」静岡市蔵)
本丸御殿の指図(設計図)「駿府御城并御座鋪図」
静岡市蔵