日本茶輸出の歴史に学ぶ~清水港茶輸出開始から100年~ 印刷用ページ

最終更新日:
2015年3月26日
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1906年5月13日 神奈川丸“清水港からアメリカへ” (上田毅八郎画 フェルケール博物館蔵)


はじめに
 お茶(緑茶)は私たちの暮らしの中で最も日本らしさを感じるものの一つである。
 しかし、江戸時代末期から我が国でお茶の生産が飛躍的に伸び、現在でも極めて自給率の高い品目となっているのは、お茶が海外輸出向け品目として戦略的に生産が拡大されてきたからにほかならない。

開国と茶輸出
 長い鎖国時代が終わり、日本がアメリカ合衆国をはじめとする国々と貿易を開始し、世界経済の中に組み込まれた当時、茶は生糸と並ぶ重要な輸出品目となった。
 明治維新後、静岡県の牧之原台地の開墾などによって大幅な茶の増反が行われたのは、立地条件的な理由もあったが、当時、茶が有望な商品作物として期待されていたためである。
 当時は茶の生産量など統計的な把握は困難だったと思われるが、データによれば、例えば明治一五年には生産量の実に八二%が輸出に供されていたことになる。
 その輸出先は、大半がアメリカ合衆国であった。
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明治時代 清水港輸出の様子 (静岡県茶手揉保存会所蔵)


当時の茶輸出の実態
 それでは、我が国の各茶産地から海外へ次々にお茶が売られ、茶生産者や商工・流通業者はその恩恵に浴し経済的に潤っただろうか。
 残念ながらそうではなかった。
 当時、外国と貿易できる港(開港場)は全国で五港のみであり、明治元年にはこのうちお茶を取り扱うことができるのは横浜、神戸、長崎の三港と決められた。そしてそれらの港には「外商」といわれる外国人の貿易商社が進出して輸出を担っていた。
 したがって「輸出」とはいえ、生産側から見ればそれらの「外商」へお茶を販売するのであり、静岡を例に取れば、県内で生産された茶は、一旦海路で横浜港へ陸揚げされた後、外国資本による再生工場で仕上げ加工、包装された後、改めて海外へと輸出されていたのである。
 外商への販売についても、開港場には外商への斡旋や卸売りを専門とする「売り込み問屋」がおり、中間取引を行っていた。これらのマージンや不平等な関税制度、加えて日本人が国際的な商取引に不慣れだったことなどにより、売買は「外商」のいいなりとなることが多かったようである。
 また外商も利益を上げるために茶を着色したり粗悪茶を混合したりして評価を下げることも多く、このため、各茶産地へもたらされる利益は極めて僅少であったと思われる。
 また、外国商館が設置した再生工場では日本人女工が過酷な労働を強いられており、まさにお茶版の「女工哀史」というべき状況が展開されていた。
 このように、茶の輸出が外国商社に委ねられていたことから、産地の仲買業者や問屋も商社に売り渡してしまえば終わりで、その後の流通や販売経路は全く知り得なかった。
 このため茶産地では海外市場のマーケティングやそれに基づく製品作りなどの対策などは到底考えられなかった。また不利な取引を強いられた結果、産地でも目先の利益に囚われて粗悪な茶を出荷して信頼を失墜させることもたびたびあり、このため明治初旬、毎年のように茶の輸出量は増加して行ったが価格は安定しなかった。

「直輸出」への悲願
 このような状況であったため、茶業関係者にとっては「直輸出」が悲願となっていた。海外と直接取引きできれば中間段階の費用を軽減できるだけでなく、外商に不利な取引を強いられることもなく、また海外市場のニーズに応じた生産も可能になり、有利な取引が期待できると考えられた。
 さて、「直輸出」というとき二つの意味が考えられる。一つは前述のように外国商社を経由しないで直接外国市場に販売するという、「直接取引」の意味であり、今一つは、産地が横浜などの開港上を通さず産地直近の港から直接海外へ搬出する、いわば物理的な直輸出である。
 前者の取り組みは比較的早く行われた。明治八年に政府が再生工場を設けて輸出を行ったことをきっかけに、各地で再生工場・直輸出を行う会社が設立されていった。
 しかしいずれも資本力が小さくて相場変動の激しさに対応できず、短期間のうちに倒産・解散してしまった。その後も県単位で製茶会社が設立され、さらにそれらを合体したより大きな再製・輸出会社が設立されたがいずれも成功せず、直輸出は大きく拡大しなかった。
 ただしここでいう「直輸出」は外商への販売でないことは確かだが、外商を通した委託販売であったり、日本商社を通じた委託販売であったりで、これらの会社が直接海外の商社と取引をしていたたわけではない。
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清水港遠景(JAしみず提供)


茶産地・静岡の動き
 
静岡県内でも茶の輸出は「横浜港への移出」という形で、県内の様々な産地が最寄りの港から行っていた。茶の移出港としては沼津、清水、焼津、相良、福田、川崎(牧之原市)、地頭方等があった。これらは外国茶商を通じての間接的な輸出であるとともに、移出に係るコストが掛かることから、生産者の収益性は低いものであった。
 このような現状を打破すべく、茶産地・静岡でも「直輸出」への動きが活発化する。その中心舞台となるのが清水港であった。
 国内随一の茶産地となった静岡県でも、直輸出は茶業者の悲願となっていたが、もう一つの意味の「直輸出」にも大きな期待がかかる。その大きな引き金となるのが明治二十二年の東海道線の全線開通である。これにより、静岡市中に集められた茶の横浜への輸送はもっぱら鉄道によるものとなり、清水港の海運業は急速な衰退を余儀なくされていったのである。
 明治二十四年清水町議会の中井俊之助ら若手議員らは、この難局を切り開くべく、貴族院、衆議院議長へ「特別貿易港」指定への請願書を提出する。
 「もし、清水港から直接輸出できるならコストも低減でき輸出が促進される。県内の製茶業の発展、そのことは日本の利益にもなる」。明治維新以降、積極的な殖産興業策により近代化を推し進めようとする政府に熱く語り掛けた。
 明治二十九年には、清水町長望月萬太郎、回漕業者鈴木與平(四代)らは、地方政財界、茶業界のリーダーの名を連ね、国会、政府へと働きかけ、「開港外貿易港」の指定を獲得する。
 さらに、三年後の明治三十二年、清水港は全国二十二港の一つとして外国貿易の開港場に指定され、直輸出実現に向けて大きな一歩を踏み出した。

産地からの直輸出実現へ!そして日本一の茶輸出港へ
 しかしながら、開港後、一向に清水港に日本茶輸出のための船舶が入港することはなかった。その前に立ちはだかったものは「茶の再製」である。当時、日本茶は「再製」という工程を経てはじめて輸出されたが、その再製工場が産地・静岡、清水港になかったため、依然として横浜港から輸出されていた。
 産地からの直輸出実現への最後の大きな扉は、静岡県茶業組合連合会議所の海野孝三郎らによって開けられる。海野は静岡市に静岡製茶再製所を創設、さらに日本郵船と約十年に及ぶ根強い交渉の末、外国航路が開けることになる。
 かくして一九〇六年(明治三十九年)五月十三日午前九時、日本郵船の神奈川丸が清水港に入港する。以後、日本茶の輸出港マップはドラマチックな変遷を遂げる。
 明治四十一年には神戸港を、明治四十二年には横浜港を抜いて、清水港が日本一の座につく。大正六年には全国茶輸出高の七十七パーセントを占め、名実共に日本一の日本茶輸出港となる。
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海野孝三郎 (静岡県茶文化振興協会茶道楽17号より)


茶直輸出から学ぶもの
 産地からの直輸出は、生産の拡大、品質の向上、技術革新、さらには輸送基盤の整備や、都市経済、都市基盤の形成と好循環を描き地方都市を発展へと導いた。
 この好循環をもたらしたものは何であったのだろう。
 一八五九年(安政六年)六月二日、長い鎖国政策が終わり開港を迎えたこの日、国際商品「日本茶」が誕生した。以来、わが国は、突如として放り出された大海原の中で、潮流に流されながらも、国際社会の中で、国交、国際流通、商取引といった近代資本主義社会でのノウハウを身に着けていった。
 また、現在とは比にならない情報環境の中で、暗中模索を繰り返しながら、イニシアティブを確立していった。何一つ確証的な実績のない中で、これまで述べたような改革、開拓が成された要因、それは明治の時代に共通する志を持った様々な人たちの力に他ならない。
 為政者、行政、議会、業界、そのすべての中に、創造的な大志と挑戦的な姿勢、逆境の中、志を貫徹する強い意志を兼ね備えたリーダーの存在があった。ここ茶産地・静岡、清水港のケースだけ見てもその数は枚挙に遑(いとま)がない。ここにこそ、私たちが先人から学ぶべきものがあると思う。

清水港茶直輸出百周年
 
その後、昭和、平成という大きな時代の中で、日本茶は海外向けが半数以上を占めた時代から、国内消費主体に大シフトし、さらに緑茶輸入が輸出を大幅に上回る輸入超過という現実。加えて、ペットボトルの急速な普及に見られるような消費スタイル、ライフスタイルの変化。二〇〇五年(平成十七年)、わが国は予想を上回るスピードで、戦時期を除き、史上初めて「人口減少時代」へと突入した。まさに不透明な時代である。
 今年の五月十三日、先人らが尽力して実現させた清水港からの直輸出から百年という大きな節目の年を迎える。
 この期に、私たちは、先人の功績をあらためて現代の人々に伝えると共に、その情熱、まちや産業への思いを享受するとともに、これから百年の先、この地の生活により一層お茶が感じられ、茶に関わる産業や文化活動が活発に行なわれていることを願ってやまない。

おわりに
 
茶業界で永く使用されている資材に、荒茶出荷に使用する「大海」がある。命名の由来は不明であるが、今回、日本茶輸出の歴史を振り返る中で、ふと目に付いた言葉がある。
 「大海を手で塞(せ)く」。広辞苑によれば「到底できないことをしようとすることのたとえ」とある。
 「世界市場という大海原に真っ向に立ち向かった志を、万代にわたり継承して欲しい」。明治人が後世に託して命名したようにも聞こえてくる。
 (公益財団法人世界緑茶協会 「緑茶通信」17号より)

 
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大海 (静岡茶文化振興協会茶道楽第24号より)

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