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更新日:2024年2月15日
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駿府で行われた「大御所政治」
「大御所政治」の拠点 駿府
慶長10年(1605)将軍職を息子秀忠に譲り大御所となった家康は、慶長11年(1606)に駿府に拠点を置くことを決め、慶長12年(1607)諸国の大名に命じて駿府城の普請を開始します。駿府は箱根山の西側に位置し、東国に入る要の地域として重視されていました。江戸時代のはじめには、幕府の支配機構の補助機関、西国の豊臣方勢力に対する前線拠点として、家康も駿府に拠点を置いたものと考えられます。
「大御所政治」を支えた家臣団
家康率いる駿府の「大御所政権」には、秀忠率いる江戸の幕府を確立させるための補助的機関のような役割があり、江戸幕府の基盤が整うまでの間、実質的に日本全国を統治する拠点としても機能していました。そのため家康の元には政治や外交、寺社政策、文化政策など様々な部門に長けた人物が集められ、駿府の「大御所政権」を支えていました。
なかでも成瀬正成や安藤直次をはじめとした新参譜代の家臣たちは「駿府年寄衆」として、幕政に関わる取り決めや大名への通達を行い、全国的にも大きな影響力を及ぼしました。また、家康の権威や恩寵を後ろ盾にした「近習出頭人」とよばれる人々も、京都所司代などの重要な職務についており、駿府の「大御所政権」が政治のあらゆる側面に影響力をもっていたことが窺えます。
このほかにも金地院崇伝や南光坊天海などの僧侶、林羅山などの学者、茶屋四郎次郎や後藤庄三郎といった商人、そしてウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンといった外国人家康の元に仕えており、様々な分野で活躍しました。
江戸時代はじめの城普請(工事)のようす
「築城図屏風」名古屋市博物館蔵