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更新日:2024年6月11日
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家康がつくった(?)駿府城下町
静岡県内外には、家康在城時の駿府城下町を描いたとされる絵図が数多く残されています。これらの絵図によれば、家康在城時の駿府城下町は城郭周辺部や城郭の北西側に武士の居住地が、城郭の南西側に商人・職人の居住地が設けられていたようです。また、町場の南西側の端には寺院が密集しており、城下町を防衛する役割を担っていたものと考えられています。
また商人・職人の住む地域は、町が作られた当初、職種によって住み分けられ、それぞれの町には職業の名前などが付けられました。現在でも「大工町」や「大鋸町」などの町名が残されており、家康によって造られた城下町の痕跡が残されています。家康によって整備された駿府城下町は、江戸時代を通じて東海道の宿場町として栄え、現在の静岡市街地の「にぎわい」につながり、静岡市街地の原型ともいえます。
一方で江戸時代の駿府城下町は、今川の時代から商業の中心として栄えていた本町(現在の静岡市呉服町、七間町、両替町周辺)や、今宿(現在の人宿町周辺)といった町場を利用しながら作り替えていったものと考えられており、徳川時代の駿府城下町の土台は今川時代にあったともいえます。こうした背景からも私たちが現在生活し商業や行政の中心として機能するこの町が、どのように出来てきたのかを知るには、今川・徳川両方のまちづくりについて明らかにしていく必要があります。
家康在城時の駿府城下町を描いたとされる絵図
「駿府城下町割絵図」静岡市蔵
江戸時代の駿府城下町の様子