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更新日:2024年10月24日

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徳川家康~大御所と駿府城下町~

徳川家康は幼年期、壮年期、そして晩年と3度の期間を駿府(現静岡市街地)で過ごしました。このうち壮年期と晩年には駿府を自身の拠点に定め、駿府城を居城として整備しました。特に晩年の「大御所時代」には、家康率いる「大御所政権」が江戸幕府の補助的機関として大きな影響力を持ち、駿府城下町も政治・外交の中枢都市として栄えました。

竹千代像(静岡駅)

今川の人質として駿府で過ごした幼年期の家康を表した銅像です。「竹千代」は家康の幼名です。

壮年期の家康像(静岡駅)

家康の二度目の駿府居住の頃、家康40代後半の姿を表した銅像です。題字は徳川宗家十八代徳川恒孝によって書かれています。

晩年の家康像(駿府城公園)

「大御所」として駿府に移ってきた頃の家康の姿を表した銅像です。家康は晩年の65歳から亡くなる75歳までの約10年間を駿府で過ごしました。

大御所家康の駿府生活

大御所とは

「大御所」とは前征夷大将軍や将軍の父の敬称です。家康も、慶長10(1605)年に息子の秀忠に将軍職を譲ったあと、「大御所」と呼ばれていました。ここでは駿府での家康とその周辺の暮らしについて記していきます。

駿府での生活

晩年の家康は、駿府で政治の指揮をとる立場にもありましたが、時には側近や諸大名、駿府に住んでいた家康の末子たちと一緒に能に興じることがありました。家康に多様な趣味があったことは広く知られており、能もその中のひとつといえます。このほかにも、茶道や鷹狩といった、武士のたしなみとして身に着けておくべきものから、書や絵を書くこと、薬の調合なども行っていたことがわかっています。家康が使用していた衣服をはじめ、能や茶の湯の道具、家康の書いた書画などは、家康の死後、家康が葬られた久能山東照宮や江戸の将軍家、御三家に分け与えられました。各家に伝わる茶道具や能衣装などは、当時の家康の暮らしぶりを知ることができる貴重な資料です。

家康と「徳川御三家」

家康には11男5女の子供がいました。そのうち末の三人、9男義直、10男頼宣、11男頼房は家康の駿府移住とともにこの地に移り、駿府城内で生活していました。
この家康の三人の末息子たちは、家康の死後にはそれぞれ、尾張・紀伊・水戸に移され、後にはこの三人の家系が「徳川御三家」と呼ばれるようになります。
また10男の頼宣は慶長14(1609)年から元和5(1619)年までの約10年間(8歳~18歳まで)、駿河遠江50万石を領地として与えられ、駿府城を居城に駿府藩主を勤めています。頼宣の母お万の方も、頼宣について家康の死後も駿府で生活を続けました。現在でも、静岡市内には、日蓮宗に帰依していたお万の方にゆかりのある寺院が数多く残されています。

「家康公御真筆御影」宝台院蔵

この画像は正式名称を「一品大相国安国殿徳蓮社崇譽道和大居士御真筆御影」といいます。「一品大相国安国殿徳蓮社崇譽道和大居士」とは家康の戒名で、「真筆」は家康自身が描いたことを表します。

本丸御殿の指図(設計図)「駿府御城并御座鋪図」
静岡市蔵

絵図が作られた年代は不明ですが、駿府城の本丸内にあった御殿(家康やその後の城主が居住した館)を表した絵図です。家康に謁見するために様々な人々がこの御殿を訪れていました。

駿府で行われた「大御所政治」

「大御所政治」の拠点駿府

慶長10年(1605)将軍職を息子秀忠に譲り大御所となった家康は、慶長11年(1606)に駿府に拠点を置くことを決め、慶長12年(1607)諸国の大名に命じて駿府城の普請を開始します。駿府は箱根山の西側に位置し、東国に入る要の地域として重視されていました。江戸時代のはじめには、幕府の支配機構の補助機関、西国の豊臣方勢力に対する前線拠点として、家康も駿府に拠点を置いたものと考えられます。

「大御所政治」を支えた家臣団

家康率いる駿府の「大御所政権」には、秀忠率いる江戸の幕府を確立させるための補助的機関のような役割があり、江戸幕府の基盤が整うまでの間、実質的に日本全国を統治する拠点としても機能していました。そのため家康の元には政治や外交、寺社政策、文化政策など様々な部門に長けた人物が集められ、駿府の「大御所政権」を支えていました。
なかでも成瀬正成や安藤直次をはじめとした新参譜代の家臣たちは「駿府年寄衆」として、幕政に関わる取り決めや大名への通達を行い、全国的にも大きな影響力を及ぼしました。また、家康の権威や恩寵を後ろ盾にした「近習出頭人」とよばれる人々も、京都所司代などの重要な職務についており、駿府の「大御所政権」が政治のあらゆる側面に影響力をもっていたことが窺えます。
このほかにも金地院崇伝や南光坊天海などの僧侶、林羅山などの学者、茶屋四郎次郎や後藤庄三郎といった商人、そしてウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンといった外国人家康の元に仕えており、様々な分野で活躍しました。

江戸時代はじめの城普請(工事)のようす
「築城図屏風」名古屋市博物館蔵

家康がつくった(?)駿府城下町

静岡県内外には、家康在城時の駿府城下町を描いたとされる絵図が数多く残されています。これらの絵図によれば、家康在城時の駿府城下町は城郭周辺部や城郭の北西側に武士の居住地が、城郭の南西側に商人・職人の居住地が設けられていたようです。また、町場の南西側の端には寺院が密集しており、城下町を防衛する役割を担っていたものと考えられています。
また商人・職人の住む地域は、町が作られた当初、職種によって住み分けられ、それぞれの町には職業の名前などが付けられました。現在でも「大工町」や「大鋸町」などの町名が残されており、家康によって造られた城下町の痕跡が残されています。家康によって整備された駿府城下町は、江戸時代を通じて東海道の宿場町として栄え、現在の静岡市街地の「にぎわい」につながり、静岡市街地の原型ともいえます。
一方で江戸時代の駿府城下町は、今川の時代から商業の中心として栄えていた本町(現在の静岡市呉服町、七間町、両替町周辺)や、今宿(現在の人宿町周辺)といった町場を利用しながら作り替えていったものと考えられており、徳川時代の駿府城下町の土台は今川時代にあったともいえます。こうした背景からも私たちが現在生活し商業や行政の中心として機能するこの町が、どのように出来てきたのかを知るには、今川・徳川両方のまちづくりについて明らかにしていく必要があります。

家康在城時の駿府城下町を描いたとされる絵図
「駿府城下町割絵図」静岡市蔵

江戸時代の駿府城下町の様子

お問い合わせ

観光交流文化局歴史文化課歴史文化推進係

葵区追手町5-1 静岡庁舎新館16階

電話番号:054-221-1569

ファックス番号:054-221-1451

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