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更新日:2024年10月24日
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今川氏~駿河に君臨した名家~
今川義元と言えば、「桶狭間の戦いで大軍を率いながら、少数の織田信長に討たれた公家風の大名」というイメージがありますが、これは後世に作られたものです。今川氏は、室町・戦国時代の230年に渡り駿河に君臨した名家でした。
「今川義元像」臨済寺蔵
今川氏について
駿府の今川氏
今川氏は、室町幕府将軍の足利家の一門でした。暦応元(1338)年、初代範国が駿河国守護に任じられ駿河今川氏が誕生しました。
8代氏親
氏親は、父で7代の義忠が遠江侵攻中に戦死した後、生母北川殿の兄弟であった伊勢盛時(後の北条早雲)の支援を受け家督を相続しました。氏親が行った検地や分国法制定によって、今川氏は守護大名から、領国において政治・経済・社会などの諸側面で最高・唯一の公権力者である戦国大名となりました。
「今川氏親像」増善寺蔵
女戦国大名寿桂尼
寿桂尼は氏親の妻で、氏親の死後は息子の氏輝が若年であったため、領国支配に積極的に携わりました。氏輝が16歳になるまでの2年間、寿桂尼は「帰」(とつぐ)の印文のある自分の印を押した朱印状を出し今川氏の政務を取り仕切ったことから、「女戦国大名」と呼ばれました。
「寿桂尼像」正林寺蔵
9代氏輝
氏輝は、かつては病弱であるとされてきましたが、家臣団の編成や商業振興政策を積極的に行っていたこと、また軍事的には、甲斐の国の武田信虎とたびたび合戦を行うなどの活躍をしていたことが明らかになってきました。
10代義元
義元は、氏輝の死後の家督争い「花蔵の乱」に勝利し、家督を相続しました。甲斐の武田氏の娘を嫁に迎えた事から勃発した「河東一乱」の後、北条氏・武田氏と三国同盟を結びました。義元は氏親・氏輝の政策を継承し、一層発展させましたが、三河国への一大デモンストレーションとして進軍した桶狭間の合戦で、織田信長の軍勢に討ち取られました。
軍師雪斎
雪斎は、京都で修業していましたが、今川氏親に帰国を要請され義元の教育係を命じられました。後に雪斎は、臨済寺の住職として宗教的な影響力を持ちながら、同時に今川氏の軍師として政治・軍事・外交に手腕を発揮し、義元を支えました。また、幼少時の竹千代(のちの徳川家康)の教育係であったとも言われています。
「雪斎像」臨済寺蔵
11代氏真
義元の死後、今川家を滅亡させた張本人として語られますが、領国の支配強化や経済政策に手腕を発揮しました。武田信玄の駿府侵攻によって掛川へ逃れ、最終的には徳川家康の遠江侵攻によって戦国大名としての今川氏は滅亡しました。
今川氏の領国経営
公家風のイメージの強い今川氏ですが、実は他の大名がお手本とするほど先進的な領国経営を行っていました。代表的なものとして、検地によって積極的に領内・家臣の実態把握を進めたことがあげられます。氏親が制定した「今川仮名目録」や義元が制定した「今川仮名目録追加」は、戦国大名が領国内に通用する法律として定めた「分国法」の代表例として有名です。また、義元の兄氏輝や息子の氏真は、定期市の開設や楽市政策など積極的に打ち出しました。
「今川仮名目録」明治大学博物館蔵
「寺尾文書」静岡市蔵
駿府に花開く今川文化
足利一門の血を引き、京都とのつながりも強かった今川氏には、京都から多くの公家や文化人が身を寄せました。連歌師として知られた宗長は、丸子に庵を結び(現在の柴屋寺)、今川氏の関係者と連歌会を催すとともに、京都や諸大名との連絡役を務めていました。
公家の山科言継は、駿府に滞在している間、今川氏の関係者や他の公家と宴席や和歌会、茶会などを催しました。今川氏の所蔵していた茶器の中には、秀吉や家康を経て尾張徳川家に引き継がれ現在は国の重要文化財となっているもの(「千鳥香炉」)もあります。
「宗長木像」柴屋寺蔵