印刷
ページID:10746
更新日:2024年10月24日
ここから本文です。
東海道~東と西が出会う場所~
静岡市には、江戸時代の東海道の宿場が6つもありました。これは、一つの市としては全国最多です。東西交通の大動脈東海道と、身延道をはじめとした南北に伸びる道を通して、人・物・技術の盛んな交流が行われてきました。
「東海道図屏風」右隻・左隻(静岡市蔵)
東海道について
東海道の整備
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長6年(1601)に全国統一政策の一環として東海道に宿駅を設置し、各宿間の荷物継ぎ立てを定める伝馬制をしきました。市内には丸子・府中・江尻・興津・由比・蒲原の6宿が置かれました。また幕府は、宿駅の設置と合わせて、街道の整備にも着手しました。街道筋への一律的な施策として、松並木の植樹と一里塚の設置が行われました。
『江尻宿伝馬朱印状』「寺尾家文書」静岡市蔵
江戸幕府の政策
参勤交代
寛永12年(1635)の武家諸法度において、参勤交代はそれまでの自主的なものから制度的に義務付けました。参勤交代により、街道の交通量は増大しました。
朝鮮通信使・琉球使節
朝鮮通信使は、将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して派遣されました。興津の清見寺には、訪れた朝鮮通信使によって贈られたさまざまなものが残されています。
また、琉球使節は、琉球国王即位に際して派遣される謝恩使と、将軍代替わりの際に派遣される慶賀使がありました。
両者の通行は、街道沿いの人々にとっては負担を課される迷惑なものであると同時に、行列見物は楽しみの一つでした。行列が行進の際に行っていた舞などは地域の芸能に影響を与えたといわれ、これらの使節の通行は文化交流の側面も持っていました。
「旅茶箪笥」楞厳院蔵
左:『東海名区』懸板
右:燭台「朝鮮通信使関係資料」清見寺蔵より
東海道と旅
旅を支えたもの
江戸時代は、庶民が旅をするために必要な要素である
1.時間的・金銭的余裕
2.治安の安定
3.宿泊施設の整備
4.統一貨幣の流通
が揃ったことから、庶民の旅が急増した時代でした。
宿泊施設などが整うと同時に、旅心をかきたてる旅行案内である道中記や地図が多く出版されました。
江戸時代の旅は数ヶ月かかる場合もありました。長期間の旅を支えるため、道中の費用を旅先で現金化するための両替屋などの整備や、荷物運搬のサービスが整備されました。
旅の楽しみ
旅の目的として最も多いのは社寺参詣や湯治でした。また、訴訟のための江戸行きも庶民にとっては楽しみの一つでした。旅人を迎える宿場や寺社では、旅人の心をひきつける名物が誕生しました。市域の宿場では、丸子宿のとろろ汁や興津宿の万能膏・興津鯛などが名物として有名でした。
丸子宿
府中宿
江尻宿
興津宿
由比宿
蒲原宿
「五十三次名所図会(蔦屋吉蔵版)」歌川広重(静岡市蔵)
「東海道図屏風」修復日記
2016年度に静岡市が所蔵する「東海道図屏風」(静岡県指定有形文化財)の修復を行いました。ここでは東海道図屏風の特徴や所蔵するに至った経緯を紹介します。
屏風に描かれた東海道
東海道(江戸~京都)の整備が進んだことで人の往来が盛んになり、江戸時代前期に東海道を描いた屏風などがさかんに作られました。屏風には東海道を旅する庶民や参勤交代の大名、宿場や城などが描かれ、当時の東海道の様子を知ることができます。現在、東海道が描かれた屏風は全国で約20例が確認されています。
この東海道図屏風(静岡県指定文化財・静岡市蔵)の特徴
- 狩野派の絵師により、江戸時代前期に描かれたものと推定されています。
- 府中宿(現:静岡市葵区)には駿府城の天守が描かれています。駿府城の天守は寛永12(1635)年に焼失しており、推定される屏風の制作時期(1600年代後半)には、すでに天守はなかったと考えられます。城下町として発展している様子をわかりやすくするために、天守を描いて城を明示しているようにも見えます。
- 府中宿が江戸や京都と並んで大きく描かれています。家康公が駿府城に住んでいたことから、府中宿を重要視したと考えられます。また、江戸に向かう朝鮮通信使の行列や、駿府へ入ろうとする大名行列などが描かれ政治的要素がうかがえます。
- 東海道の難所といわれる急な峠や大河川がある場所の手前には、支度をする旅人や、そこで働く人々が描かれています。地形の特徴を捉えながら、峠の途中に疲れて座り込む旅人を描くなど、人物の動きで難所の険しさを表現しています。
- 相撲をとる人々、猿回し、餅をつく人、髪を掴み合って激しい喧嘩をする人など、宿場に暮らす人々の生き生きとした姿が細かく描かれており、当時の宿場の賑わいや風俗的な特徴を読み取ることができます。
マッケンジー夫妻と東海道図屏風
エミリー・M・マッケンジー氏は、大正7(1918)年に米国の輸出茶貿易商社アーウィン商会の静岡支店長となった夫のD.J.マッケンジー氏と共に来静し、(静岡市)駿河区高松に家を構えました。エミリー・マッケンジー氏は、夫を助けて本県特産の茶の輸出に尽力し、戦後は乳児院の設立や日赤の奉仕活動に私財を投じるなど、社会福祉の向上にも寄与し、昭和34(1959)年、静岡市の名誉市民になりました。当時マッケンジー夫妻が住んでいた白壁の美しい洋館の住宅は、「旧マッケンジー住宅」として国の登録有形文化財になっています。
エミリー・マッケンジー氏は、昭和47年にアメリカへの帰国に際し、収集していた物品を静岡市に寄贈しました。東海道図屏風はその寄贈品の一つです。
その後は…
平成20(2008)年に静岡県指定有形文化財となりました。
現在は、静岡市歴史博物館が所蔵し、定期的に展示しています。
朝鮮通信使の行列(江戸~品川宿)
餅をつく人(平塚宿)
相撲をとる人々(吉原宿)
髪を掴み合って激しい喧嘩をする人(池鯉附宿)