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更新日:2024年6月11日
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近代~明治・大正・昭和・平成~
1:明治時代
静岡藩
明治維新後、最後の将軍であった徳川慶喜や、その跡を継いだ家達をはじめ多くの旧幕臣たちが移住してきたため、市域の町や村は移住者の対応に追われました。静岡藩は、その後の廃藩置県にともないわずか数年で消滅しますが、藩の学校であった静岡学問所の教育が当時最高の水準であったため全国の藩が参考にするなど、文化面で強い求心力を持っていました。
徳川家達と家臣たちの写真(個人蔵)
静岡市の誕生
明治21(1888)年に公布された「市制・町村制」を受け、静岡県内では唯一の市として、静岡市が成立しました。当初の静岡市は、駿府九十六ヶ町を中心とした範囲のみでした。
清水港開港と茶輸出
江戸時代を通して拡大した市域の茶生産は、幕末の横浜開港を経てさらに増大していきます。明治時代に入ると、東海道線の開通や清水港からの直輸出によって日本一の茶輸出量を誇るまでに成長します。現在の静岡鉄道も、もとは茶問屋が多くある安西・茶町などと清水港を結んで茶を運ぶために整備されました。
静岡第三十四連隊
家康によって作られ、江戸時代を通じて駿府やその近郊を治める拠点として機能してきた駿府城は、明治30(1897)年の静岡歩兵第34連隊の設置に伴い、兵営として作り替えられます。
2:大正時代
大正時代の都市化と文化
大正のはじめ、日本は第一次世界大戦の激化による西洋諸国の需要拡大を受け、好景気にわいていました。静岡でも工業化、都市化にともなう、水道や電灯などのインフラ、鉄道・バスなどの交通網が整備されました。また、それまでは一部の知識人を中心に受容されてきた欧米の思想や文化、芸術なども大衆にも広まります。この頃、七間町には「パテー館」や「キネマ館」などの映画館ができ、七間町を中心とした繁華街を散策する「七ぶら」が流行しました。
旧静岡中心市街地を走る路面電車の写真
(静岡市蔵)
七間町のにぎわい(個人蔵)
清水市の誕生
大正13(1923)年、清水町・入江町・三保村・不ニ見村が合併し清水市が誕生しました。市の名前をめぐっては、港の中心である「清水」と東海道の宿場であった「江尻」が対立し、「江尻清水市」や「巴市」、「清見潟市」などの案が出されましたが、最終的には清水市となりました。
3:昭和・平成時代
戦後復興と静岡中心市街地・清水港の整備
太平洋戦争は、市域にも甚大な被害をもたらしました。旧静岡市域は、戦後、県と市が進めた火災に強い「不燃化共同ビル計画」のもと生まれ変わり、郊外型大型商業施設に負けない、「人のにぎわいの絶えないまち」として全国的に注目されることとなりました。旧清水市域では、連合国軍総司令部(GHQ)によって清水港が貿易港に指定されたことで、港の復興が進みました。
青葉通りと周辺の整備された風景(静岡市蔵)
新しい静岡市へ
平成15(2003)年、旧静岡市と旧清水市が合併し、新しい静岡市が誕生しました。平成18(2006)年には旧蒲原町が、平成20(2008)年には旧由比町が編入し、現在の静岡市になりました。これまで旧2市2町がそれぞれ持っていた歴史・文化を尊重しながら、新たな静岡市としての歴史・文化を創造していきます。