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更新日:2024年2月15日

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中世〜鎌倉・南北朝・室町・戦国〜

1 中世:鎌倉時代

駿河の武士団

平安時代の中ごろには、駿河国にも多くの荘園が設けられましたが、その中で有力な豪族たちが自分の土地を守るために武装する武士が誕生しました。静岡市内には、平将門の乱で功績のあった藤原為憲の子孫と伝えられる入江氏が強い勢力を持ちました。

市域の豪族たちは、入江氏の下で静岡県内の各地に進出します。藁科氏、手越氏、吉川氏、船越氏、渋川氏、矢部氏、息津(興津)氏、由比氏、蒲原氏などが鎌倉時代以降活躍しました。

「梶原景時一族供養塔」高源寺蔵

梶原景時の最期

幕府の御家人の梶原景時は、源頼朝に仕え源平の合戦で活躍し、幕府の重要な役についていましたが、頼朝が死ぬと北条氏との対立がもとで幕府内で孤立し、幕府に反旗をひるがえして鎌倉を脱出しました。西へ向かう景時の一行は清見関付近で入江一族ら駿河国の武士たちと衝突し、庵原川下流付近や高橋付近(清水区)で合戦となりました。

いったんは曲金(駿河区)付近に逃げた景時も、再び狐ヶ崎(葵区川合付近)で引き返し、嫡子景季、次男景高とともに夕日無山の山中へ逃げこみ、父子3人で自害しました。高橋の高源寺に景時一族の供養塔が建てられています。また、大内には梶原堂が建てられ、その霊を弔っています。

2 中世:南北朝・室町時代

南北朝の内乱

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政に不満を持った足利尊氏によって朝廷が分裂されてから50数年間を南北朝時代と言います。北朝方の尊氏は、一族の今川範国を駿河・遠江の守護につけ、地方の武士を味方に引き入れようとしました。また清見関に目をつけ、戦乱で荒廃した清見寺(清水区興津)を造営し、街道の防備と反幕府勢力の監視を行いました。

一方、安倍城(葵区西ヶ谷)に拠点を構えていた狩野貞長は、駿河国の南朝方の中心人物として活躍しました。安倍城は安倍川西岸の内牧、慈悲尾、羽鳥にまたがる標高435mの山上にあって、ここを本拠地とし南朝方の勢力圏を形成しました。しかし、次第に北朝方に制圧され、安倍城も落城しました。

「足利尊氏坐像」清見寺蔵

3 中世:安土桃山時代

今川氏の台頭

応仁元年(1467)将軍・義政の時、将軍家・管領家の後継者争いに端を発した応仁・文明の乱とよばれる11年続く内乱が巻き起こりました。全国の守護を巻き込み、主戦場となった京都は荒廃しました。この内乱に駿河守護・今川義忠も参戦し、将軍・足利義政を擁する東軍に属しました。しかし、文明8年(1476)に義忠は塩買坂(袋井市)において戦死しました。今川義忠の子息の氏親は、後に塩買坂付近に正林寺を建立し、その菩提を弔いました。

今川氏 駿河に君臨した名家

「今川義忠木像」正林寺蔵

武田氏の駿河侵攻

桶狭間の合戦で今川義元が討たれてから8年後の永禄11年(1568)、武田信玄は駿河侵攻を始めました。義元の跡を継いだ氏真は敗れ掛川に落ち延びました。勝利した信玄は、現在久能山東照宮がある場所に久能山城を、江尻には江尻城を築き一族の穴山梅雪を城主としました。

「穴山梅雪画像」霊泉寺蔵

家康の「五か国領国時代」と中村一氏の駿河支配

天正10年(1582)に武田家が滅亡すると、駿府城には家康が入りました。その後、小田原の後北条氏が滅亡するまでの8年間、駿府は家康が駿河・遠江・三河・信濃・甲斐の五か国を支配する「五か国領国時代」の拠点となりました。

家康が江戸に移封された後は、豊臣系の中村一氏が駿府城主となりました。一氏のもとでは、家臣の横田村詮による積極的な統治政策が行われました。

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観光交流文化局歴史文化課歴史文化推進係

葵区追手町5-1 静岡庁舎新館16階

電話番号:054-221-1569

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