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更新日:2024年6月11日
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近世
江戸時代
「神君家康公」のおわした町駿府
家康在城時、10万人を数えた駿府の人口は、幕府直轄地となる1630年代には、1万人弱まで激減しました。駿府の支配は、全国の大名や旗本が短期間で交代する形で執り行うようになり、駿府の町人たちは「駿府九十六ヶ町」が交代で町の運営を行う制度を作り上げました。駿府では、飢饉や災害が起こるたびに「権現様御在城之節」と、幕府に対して家康との関わりを主張することで援助を勝ち取ってきました。駿府の人々は、家康死後も家康に守られながら町を運営していました。
「駿府城下町割絵図」静岡市蔵
駿府の外港、清水湊
江戸時代、清水湊は港のない城下町駿府の外港として、駿府と切っても切れない関係にありました。特に、山間部の多い市域は慢性的な米不足に悩まされていたため、現在の山梨県から富士川を通じ清水湊へ集められ、江戸などの各地に運ばれる甲州廻米を、いかに市域に流通させるのかが重要な課題であり、清水湊はその役割を担っていました。
「三保ノ図」もりおか歴史文化館蔵
幕末維新
嘉永6(1854)年のペリー艦隊の浦賀来航によって、市域の村々にも海岸警備が命じられるなど、幕末の動乱が波及してきました。翌嘉永7年=安政元(1855)年には安政東海地震が発生し、社会不安をいっそうあおりました。戊辰戦争の官軍の東上の際には、伝馬町で西郷隆盛と山岡鉄舟の会談がもたれ、徳川家存続の道が開かれました。