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更新日:2025年2月12日

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駿府城公園の整備

明治維新後、市施行に伴い駿府城跡の払下げを願い、明治24年に払い下げを受けました。その後、陸軍34連隊誘致のため陸軍省に献納しました。戦後、再び払い下げを受け昭和24年、中央公園として都市計画決定を行いました。昭和26年には市民アンケートで名称を「駿府公園」と改め、駿府会館、児童会館をはじめ都市公園として整備を行い、多くの市民の憩いの場として利用されてきました。
昭和58年には駿府会館跡地から中世頃と思われる遺構が発見され、発掘調査を行った結果、駿府城の天守台と思われる石垣が発見されました。昭和60年には、市内在住の個人より「駿府御城内外覚書」の古文書が提供され、平成元年には巽櫓が完成しました。平成3年には駿府公園整備計画を策定し、順次整備を進めています。

駿府城の歴史

駿府が最初に発展を見せるのは、駿河国の守護であった今川氏の町としてで、15世紀の末から16世紀のことである。その後、武田氏の支配の時代を経て天正10年(1582)には徳川家康公の支配する所となり、同14年以降家康公の五箇国支配の拠点となった。家康公は天正13年から城の経営を始めているが、本格的に城の普請が行われたのは「家忠日記」等によれば、同15年からで、同17年にはひとまず完成したと同記は伝えている。家康公は天正18年には江戸に移り、その後に入った中村氏も関ヶ原の戦の後、米子に移され続く内藤氏は、駿府家康公が隠居地となる慶長11年(1606)までの城主であった。
家康公は慶長10年に将軍職をその子秀忠に譲り、同12年には隠居地と定めた駿府に新たに城を築くこととなった。「当代記」や「徳川実記」等によって普請の経過をみると次の通りである。

  • 慶長11年(1606)3月20日家康公隠居の地を駿府と決める
  • 慶長11年(1606)4月28日万石以上の衆は明年駿府城の助役が予定されているので伏見城の助役を除かれる
  • 慶長11年(1606)10月6日家康公城地を決める
  • 慶長12年(1607)正月25日奉行任命助役に人夫を課す
  • 慶長12年(1607)2月17日普請始まる
  • 慶長12年(1607)3月25日畿内等へ500石につき人夫3人を課す(500石に1人ともいう)
  • 慶長12年(1607)5月23日本丸経営始め、天守台の基石初めて置かれる
  • 慶長12年(1607)7月3日落成、家康公移徒
  • 慶長12年(1607)8月15日二ノ丸未だ成らず
  • 慶長12年(1607)12月22日失火焼失

家康公は直ちに再建に取りかかり、翌年の3月には早くも御殿が落成した。このたびの造営の経営は次の通りである。

  • 慶長12年(1607)12月29日再建のため京から工匠達が雲霞のように駿府へ下る
  • 慶長13年(1608)正月再建のため人夫を集め材木を切り出すことを命ずる
  • 慶長13年(1608)2月14日本城上棟
  • 慶長13年(1608)2月青山重成に監督させる
  • 慶長13年(1608)3月3日御殿瓦白蝋葺で成る
  • 慶長13年(1608)3月11日本城落成家康移徒
  • 慶長13年(1608)8月18日大工中井正清行賞
    ※行賞…功績に対して賞を与えること
  • 慶長13年(1608)8月20日天守上棟
  • 慶長13年(1608)11月この頃普請続く
  • 慶長14年(1609)6月1日女房局失火
  • 慶長15年(1610)10月9日厨失火、幾棟か焼ける
  • 慶長16年(1611)8月16日書院を立て替える
  • 慶長16年(1611)9月14日料理の間竣工
  • 寛永12年(1635)12月29日延長焼失堅石御門・二の丸冠木門が残る

この度は造営を特に急ぐことはなく、造営の経過は次の通りである。

  • 寛永15年(1638)6月9日助役・奉行を命ずる
  • 寛永15年(1638)7月11日作事奉行駿府へ
  • 明暦2年(1656)8月~9月台風による破損修築
  • 元禄4・5年(1691・2)奥向御殿取壊し
  • 宝永4年(1707)11月三の丸石垣修理
  • 宝永6年(1709)11月本丸・二の丸石垣修理
  • 宝暦2年(1752)~9年修理
  • 宝暦7年(1757)4月~5月二の丸・三の丸石垣修理
  • 宝暦8年(1758)正月23日修理のために見分
  • 宝暦9年(1759)5月晦日石垣修理
  • 明和元年(1764)4月29日修理終わり行賞
  • 安永5年(1776)11月30日内外修理終わり行賞
  • 文化元年(1804)~石垣修理
  • 天保8年(1837)12月27日塩硝屋修理終わり行賞
  • 天保11年(1840)12月29日櫓、多聞修理終わり行賞
  • 嘉永5年(1852)3月10日天守台石垣他修理の見分始まる

以上のような経過で明治維新を迎えている。
(「駿府公園巽櫓建設調査報告書」より)

駿府公園整備計画

駿府公園整備計画平面図

本市では平成3年に策定した基本計画に基づき、「歴史遺産の保存・再整備」と市民の憩いの場や大型イベント会場としての「都心の公園機能の強化」、防災へリポートや災害時の受援施設、避難広場としての「防災機能の確保」の3つを基本方針として整備を進めています。
これまでに、巽櫓(たつみやぐら)、東御門(ひがしごもん)や紅葉山庭園などが完成しました。平成20年3月に坤櫓(ひつじさるやぐら)石垣、平成21年3月には富士見芝生広場の整備が完了し、全体の約40%の整備が進んでいます。

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お問い合わせ

都市局都市計画部公園建設管理課建設係

葵区追手町5-1 静岡庁舎新館7階

電話番号:054-221-1420

ファックス番号:054-221-1294

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